伝来記

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伝来記とは

 第40世 頓誉上人により編纂された口伝伝説である。史実的にはかなり怪しい部分が多いが、火災その他さまざまな理由により由緒、因縁、歴史の文献ががほとんど残されていない当寺にとっては、口術による伝承のみが後世に繋がるものであったかもしれない。これは後山 佐藤清氏により口語訳され昭和49年「宝蔵寺近世史」に付文として掲載されている。伝説として先達が残したものを後世の残したい。原文そのままに記載する。(一部現代語訳)

伝来記(口語訳) 後山 小川清 訳

 そもそも、当寺創建は今を去ること724年前、正元元年(1259年)にさかのぼる。西明寺北条時頼公六十余州廻国の折、魚沼の撥畑(ばちばたけ)の無人の草庵に一夜の宿りをなされた。

今でも宝蔵寺の南方300mほど後山寄りに「ばちばたけ」の地名がある。

 夜更けて、公が本尊の陰にお休みなされていると、外から数人の怪しい男たちがドヤドヤと我が家のごとく入ってきた。そして男たちは公がお休みと気づかず酒盛りをはじめた。ところが暫くすると、どうしたことであろうか? 男達は劇しい苦悶の声をあげて夜明けまでにみんなその場に倒れ息絶えてしまった。

怪しい男達は、盗み追剥の成らず者。その中のbatibatake_pic.jpg (22338 バイト)一人の裏切り者が稼ぎの品を独り占めしようと考えて持ってきた酒に毒を入れていたのだ。そして何食わぬ顔で相手に呑ませ、倒れるのを見届けて「うまくいったわい」と今度は相手の持ってきた酒を呑みはじめた。ところが相手方も同じことを考えていたために、その酒にも毒が入っていたのである。かくて、夜明けまでには、全部の男達が倒れてしまった。と言うわけである。だから、撥畑の地名は罰畑と書くのが本当とも言われている。(筆者−小川清氏−は古老から昔話としてこの話を聴いた記憶がある。)

 この一部始終を物陰からご覧になっていられた公は、これぞまさしく神仏の加護、又、他謀自倒の天理とはこのことと深くお感じになられたのである。さて、夜の明けるのを待って公は、背負っておいでの笈仏を草庵の奥に奉安し,身軽ないでたちで、峠を越え妻有中条へと旅をつつけて行かれた。

「中魚沼郡誌」(大正8年刊)には下記のように妻有における時頼公関連の記述がある。
  1. 中野村長徳寺千手堂       498ページ
  2. 最明寺跡           475ページ
  3. 中條長泉寺境内観世音   476ページ
  4. 中條村最明寺川      475ページ 

その後、時頼公は北陸の巡錫を終えられて鎌倉にお帰りになると、早速、法然の弟子願誉了浄という念仏僧をお呼びになって、越後国魚沼の撥畑の草庵に恵心僧都作の阿弥陀仏の尊像があること、また、そこに我が笈を秘め納めてあることをお話になられ、「汝はそこにおもむき、阿弥陀堂をば宝蔵寺と号し、み仏の慈悲を弘め衆生救済につとめよ!!」とお命じになられた。そして、併せて田畑となる可き山沢凡そ300石を備領とすることをお許しになられた。

 その後了浄は撥畑周辺の山林竹林を伐り払い、田畑を拓らき稲を植え野菜を作り、幾年経過した。ある年の秋のこと、よく晴れた朝、了浄はほど近い田の畔に積んである稲の上にまぶしく光り輝くものを見た。何であろうかと、恐る恐ると近づいて見ると、それは、まぎれもなく千手観音の尊像であった。朝の光に映えおごそかに輝き給う尊像、余りの尊さに、ひれ伏しておがみまつり、堂の中へと還しまつったのである。

 そして、朝暮礼拝怠らず数日を経たある夜のこと、この菩薩が了浄の夢枕にあらわれた。そして、遠く信濃の国戸隠から飛来し給うたことを告げられたのである。不思議なお告げに了浄は、是非ともその由来を尋ねたいと思い、仕度を整え戸隠参詣の旅に出立した。そして、その道々一人の白髪の老人に出遇った。老人は問ず語りに次のような話をした。「戸隠山では開山、手力雄命の守り本尊として、石でもない岩でもない不思議な固い塊(朱の塊)を宝物として大事にしてきた。幾世代か後に至って、善光寺の本尊が信濃に移り伽藍仏具を建造の折に一人の仏師に命じてこの不思議な塊をもって千手観音菩薩の尊像を刻ませて奉安した。ところが、この菩薩の尊像が不思議ににも「仏法有縁、開発の地に移る」とのお告げ(悪夢)のあと何処へともなく飛び去ってしまわれた。」と語り終ると、老人の姿はかき消す如く見えなくなってしまったのである。依って了浄急ぎ経ち帰り奉安せる千手観音菩薩を拝し奉っているうちに胸のうちに深く頷けるものがあったのである。そして、早速この事情をつぶさに鎌倉の時頼公に報告申し上げたのである。

 公におかれてもその不思議な因縁に深く感動なされて、ただちに積稲天然来現の千手観音菩薩を本尊として奉安なされよ、とのご返命あり、同時に地名山号を賜い供養のため寺領も増してお授け下さった。即ち地名については、積み稲の稲と鎌倉の倉と示され、山号は、了浄竹林を伐り払いたる縁をとりて竹子山となされたのである。依ってここに竹子山宝蔵寺一時創建となったのである。

 その後、周辺民家も次第に増え、太閤の治世には過分の田畑山林を有して寺門大いに栄え勅額も下り、種々の宝物什器もすくなからず、信者も六里七里よりあまたあつまりて山国の寺院には稀な格式の寺となったのである。ところが、その後豊臣政治のもと、天下寺院の禄をすべて召し上げた折、其の例に洩れず、観音免として僅かに残されただけで他は全部没収されてしまった。

文禄の検地において寺社に対して特に厳しかったことは正史にもある。

その後惜しくも正徳元年(1711年)4月出火、辛うじて尊像等は守り出したが勅額をはじめ古文書古器及び鎌倉よりの文書寄付の物品等大部分焼失したと伝えられているにである。その火災後仮に建立した十二間の本堂は九日町の洞源寺に行き、現在の堂宇は,文化年間再建立されたもので棟梁は有名な上田郷二日町の内藤藤蔵であった。なお,この棟梁の建てた神寺彫刻は浦佐毘沙門堂の山門をはじめ各地にあり世に聞こえた名工である。

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総欅造の本堂(左)、欄間(右)、向拝口(右)の彫り物には名工といわれた藤蔵の魂魄が感じられる

本堂開扉の記(ご開帳)

そもそも,当山のご本尊日輪宝冠千手観音菩薩の感応ご利益を仰ぎ奉れば、特に長雨続き、冷害の為五穀の稔り難き恐れのある時には,古来より,近燐の信者相集い相謀り,ご本尊の開扉(ご開帳)を乞い願ってきたものである。因って開扉祈念すればその感応必ずあらたか、すなわち晴天を現わし五穀の豊穣をもたらし来たったのである。

当寺のご本尊は積稲の上に天然来現し給うた五穀豊穣のご本尊、豊作観音として古来尊崇されて来たのである。

笈佛軒の記(岩屋地蔵台座の銘文)

時頼公背負仏と申し上げるのは、ニ童子を随いたお丈け六寸一分のお地蔵様である。(堀之内町指定文化財)この台座の下に銘文が記されてあるが、これは仏教の専門用語も多く,乗運和尚さまも原文のまま揚げられてある。
大慈大悲地蔵薩垂尊像並賞善賞悪oibotoke_pic.jpg (16562 バイト)
二童子右伏願従縁奉為現当二世心中所
願成就円満増長福寿見性成佛及一切衆
生成仏得道造立供養所也
建長禪寺長老明巌和尚点眼供養
鎌倉泉谷居住出雲法眼院向造一丁
鎌倉山内尾藤谷宝石庵比丘尼覚庵従縁
時戊戌歳六月念四日      敬白
請六口僧安座供養

聖徳太子ご尊像の記

抑々、当寺の聖徳太子のご尊像は大師お自からの御作と伝えられる物である。鎌倉から、種々の宝物ご贈与の折に、時に僻陬の地に住む諸人の信仰増上の趣旨を以って送り越された物である。よって諸人深くその意を銘じ、尊崇すべき尊像である。syouyoku_pic.jpg (9209 バイト)

現在須彌壇の右奥の方に安置。

鎌倉より贈与の宝物

 1.元祖大師の舎利堂                    
 1.時頼公の笈、水晶の念珠                    

当寺重宝

 1.二十五菩薩来迎画、皇室より御下賜                    
 1.九品曼荼羅大軸 丈一丈、巾九尺、桐箱入り                    
 1.十界曼荼羅 壱拾幅                    
 1.親鸞蓮如真筆 二幅                    
 1.祐天大僧正 名号 壱                    
 1.徳川家尊牌                    

 

梵鐘造鋳

この梵鐘は昭和18年大東亜戦争中、国の金属回収の強い要請に応じて供出させられてしまったので今は写真以外見ることは出来ない。大きさについては長さ4尺、径2尺8寸2分と記録されている。

銘文

越州魚沼郡稲倉郷宝蔵寺二十七世

為音蓮社声誉上人観良菩提也  

     同二十八世到誉観及求之

干時延亨元年子七月十四日

文曰

若打金時三悪道   (若し鐘を打つ時三悪道)

一切苦悩皆停止   (一切の苦悩皆停止)

五百億劫重罪滅   (五百億劫の重罪滅す)

降伏悪魔除尽結使 (悪魔を降伏して結使を除き尽くす)

             (六日町高校 池田亨先生読み)

  願主敬白

越之苅羽郡大窪之住

 藤原氏

冶工 歌代六郎右ェ門永秋 作

同   小熊巳之助       作

目隠しの杉

  昔、向拝の前、境内の間際に往来があって、その道を馬上通ってよく落馬する者があった。(ご本尊の前は下乗するのが建前、乗馬で通るのは無礼)そこで、境内の外際に杉を三本植え、立派に生育、これを目隠杉と呼んでいた。この目隠杉が出来てから落馬する者は無くなった。

 三十四世梅誉上人の代に境内近くを向こうの山際へ廻す大工事をやった。その時、道も内鎮守(明神様)の森の向こう側へ廻したので、目隠杉は境内際には土堤を築き松桜等を植えた。川廻しによって、川が村の中を流れなくなったので、村人大いに歓喜した。

濡佛の記

   古い由緒は故あって省略し、ここには明治以来のことを記す。

長岡から修復の上再び当寺に帰求した。(当時の有志者のお名前は台座に記してある)その後明治18年に、只今の坦場(だんば)を新築して、一年中冬でも拝まれるように奉安し奉ったのである。

広辞苑に「ぬれぼとけ」とは屋根無き所に安置してあ仏像とあるとおり。この仏様はもとは当寺の戸外に安置されていたのである。それが上記のとおり本堂の一隅におまつりされたのであるが、惜しいことに前項の梵鐘と同じく大東亜戦争に供出されてしまって今は無い。俗に「金佛様」と呼ばれて真鍮色の大きな仏様(坐像)であった。記録には青銅製、阿弥陀如来、御丈三尺六寸、台座二重、重量不詳とある。

鐘楼門の記

 安政5年午の8月宗祖大師650年大法要の際寺坦有志者協力新築。

末庵

 原村に、三尊阿弥陀如来像 当寺27世観良菩提の為安置せり

現在本堂に奉安。

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