文仲だより(BUNCHUは増田電機が摂田屋にお菓子屋さんとして存在した時代の屋号です)

文仲BUNCHUだより バックナンバー

第1回(2008年10月)

いつもお世話様です、社長の増田文雄です。恒例の10月売り出しのご案内をお届けします。
今回より「文仲だより」として、私が折々に、思ったこと等をお届けしたいと思います。

一回目の今回は、増田電機の成り立ちなどをお話しさせてください。
戦前の昭和の頃、摂田屋の初日酒造のすぐ近くに、文仲菓子屋はありました。
先代の社長(おやじ)は菓子屋を継いでいたのですが、戦争末期、
宮内の理研に徴用で勤めたときに医務室の仕事に、しかもレントゲンの係になりました。
そこで写真の技術を覚えて、菓子屋の店先にカメラを並べて、押入れを暗室にして写真屋を始めました。
たいして娯楽も無かった時代で、かなり当たったようです。

ところが、敗戦となり、カメラなどは売ってお米に代える状況になり、写真屋で食えなくなった先代は、
宮内の駅前で商店さんの軒先をお借りして、ラジオの修理屋を始めました。
まち内には、すでにラジオ屋さんが有りましたので、先代は自転車の荷台に
ラジオを2−3台積んで、虫亀、朝日、種芋原、岩間木、今の山古志の中を回ったそうです。

そんな商売が、戦後の家電ブームの成長と一緒になり、
私が高校を卒業する昭和40年頃には、当店はすっかり電気屋になっていました。
この後、私が進学を断念して商売に入るのですが、この事は次回に譲りましょう。
お付き合い有難うございました。


P.S. 今年の3月から取り組んで、現在7軒の工事をさせて頂いた、
今話題の「エコキュート」の実例です。

その@  灯油とプロパンのお宅で、給湯にかかわるコストが月々約\16000だったのが
      エコキュートにした現在、電気代はなんと月\1600円前後です。

そのA  エコキュート用に夜間タイマー契約をすることにより、
      10:00PMから8:00AMの間の電気代が昼間の約4分の1になります。
      洗濯機や電気釜をタイマー使用したり、そして夜間のエアコンの使用が
      気にならなくなり、電気代全体がかなり下がります。

そのB  オール電化ローンの年率3.8%の120回払いで月々6800円位ですから、
      灯油とプロパンとの差額で払っても、まだ余りが出ることになりました。

そのC  国のバックアップにより、\42000円の補助金が申請により出ます。

いかがですか、地球温暖化防止の為にもお考えになってはいかがでしょう?



第2回(2008年12月)

寒くなってきました、皆様風邪などお召しになりませんようになさってください。
さて、一回目の文仲だよりには、色々な方から励ましのお言葉を頂きました。
なかには丁寧にお手紙を下さったお客様もいらっしゃいました。有り難い事です。 紙面をかりてお礼申し上げます。

先回の続きですが、私は昭和40年に高校を卒業するのですが、
実はその時の私は進学してサラリーマンになりたいと思っていました。
別に向学心に燃えていた訳ではなく、周りの殆んどが進学でしたし、
夜、何時になっても仕事に飛び出していく先代を、子供心に大変そうに感じて、
単純に勤め人がいいなぁと思っただけなのですが・・・。

しかし、前年39年には東京オリンピックがあり、テレビが白黒からカラーに急激に変わりました。
先代いわく、”俺は電気の基礎がないまま、真空管をコンコンと叩いてラジオを直しテレビもやっとのことで修理して来たが、
カラーになりトランジスターやICなんて話も聞こえる、もう俺の手に負えない、お前が進学して
4年後に戻った時には、『増田電機屋は修理の出来ない店』というレッテルを張られているぞ”

家を継ぐ気が全く無いわけでない私は、これには参りましたね。

しかも”どうしても仲間と東京に行きたいのなら、一年間だけ川崎の東芝工場の中の
家電修理養成所に行って来い”と言うではありませんか。もとより向学心には縁の薄い私は、
友人の家に10日ほど、身をよせて家出のまねごとなどしていましたが、卒業後いそいそと江戸にむかったのです。

ま、一年はあっという間で、印象に残っているのは修理の勉強よりも、先輩の紹介で
バンドボーイのアルバイトで米軍キャンプ回りをしたこと、今は無きホテルニュージャパンの地下の
「ラテンクォーター」なんてナイトクラブでEHエリックの司会でジャズバンドを毎晩聞いたこと位です(どうもすみません)。

あとは、長岡に帰って私なりに今日まで41年間電機屋をさせて頂いてきました。
長くなりましたが、当店の歴史と私の自己紹介はこれ位にして・・・
次回から、別の話題でお話させて下さい、今回もお付き合い有難うございました。    

2008年12月 増田電機  増田文雄



第3回(2009年3月)

いつもお読みいただき有難うございます。今回は秋元さんのことをお話したいと思います。
そう、皆さんご存知の“愛のままで…”で見事紅白出場を果たした、歌手の秋元順子さんです。

あれは2003年の3月でした、FMながおかの私の番組に、”マディソン郡の橋のように” という曲で
マイナーデビューしたばかりの秋元さんがゲストにおいでになりました。

曲は、演歌とも歌謡曲とも違う素敵な曲でした。 ご本人は、吉永小百合さんのような***ではないのですが、
とても人間味のある、明るい性格の、そしてとても律儀な方でした。
収録が終わって旅行カバンを後ろに引いて、長岡駅に一人で歩いていかれる後ろ姿を今でも良く 覚えています。
それからは何かにつけてお手紙、電話を下さり、一歩一歩前進していかれる報告 を伝えて下さいました。
中越地震の時も、すぐに”だいじょうぶ?”と電話をいただきました。

 翌2004年6月、私の番組”JAZZYな夜”の400回記念番組の日が、地震で2ヶ月番組が ストップした為に、
偶然私の誕生日6/25と重なり、養老の瀧・宮内店さんで公開録音をした のですが、秋元さんにそれを話したところ、
なんと”私も6月生まれよ、行くわよ”という事で わざわざ足を運んで下さり、秋元さんも交えての番組収録と、
その後は私のベンチャーズバンド ”再起動”の演奏、そして秋元さんの唄と、素晴らしい400回記念となりました。

 それからも事あるごとにお手紙や花束や送って頂き、彼女の律儀さと、人の心を大切にされる 様子には、
商人の端くれとしまして、とても勉強させていただきました。
その後の秋元さんの ご活躍は皆さんもよくご承知のことと思いますので触れませんが、
忘れられないのは紅白出場が 決定した時に電話を下さり、
”増田さんうれしい!!!!でも、飛ぶ鳥はいつか落ちる時がくる。 私、それが怖いです” とおっしゃったんですね。
私は “秋元さん、大丈夫!!貴女なら、そういう時がきても必ずゆっくりと安全に着地すると 信じていますから、
また、僕たちのところに来てください” と、お伝えしました。

自慢話みたいになってしまいましたが、私は本当に秋元さんという方を見ていて、
お客様に 対する生き方、人としてのあり方、いろんな事を学ばせていただきました。
秋元さんを応援しながら、自分の商売も頑張らせていただこうと思っております。

15年間でしたが、皆様に親しんでいただいたこの店にも本当にお世話になりました。
大家さんにも感謝しております。また、新しい店ができましたら、ぜひお出でください。
皆様のお越しを心よりお待ちしております!!
                                   
2009年3月 増田電機 増田 文雄  



番外編「紋次郎だより」(2009年5月 新店舗移転記念として・・・)

※紋次郎とは、70年代初期に大ヒットした時代劇「木枯らし紋次郎」を見て社長が私(直樹)に付けようとした名前です。

いつも「文仲だより」をご愛読くださり誠にありがとうございます。
今回は「番外編」としまして、社長に代わり、新店舗店長を任されました私・増田直樹が「紋次郎だより」をお送りいたします。

まずは、皆様方の多大なるご愛顧により増田電機を移転・リニューアルオープンさせて頂くことができました。
心より御礼申し上げます。

旧店舗では16年近く営業させていただきましたが、開店当初はたくさん必要だった店舗在庫も、時代の流れとともに流通網が発達し
注文すれば早ければ翌日にも入荷するようになったため、店舗に在庫を持つ必要性があまりなくなってきました。
また、天井の高い旧店舗は広々として開放感があり、夏は涼しげでとても良かったのですが、
その反面冬はどんなに暖房をしても足元まで暖かさが行き渡らず、電気屋であるというのに、
お客様に寒い思いをさせてしまうのが常々気にかかっていました。

そこに、旧店舗から程近いこの場所が空いたという情報が入り、思い切って移転リニューアルを決断した次第です。
旧店舗のオープンは、景気の良い時代だったこともあり、がらんどうだった飲料会社の倉庫を一から内装し直すという
大掛かりなものでしたが、今回は移転先が近いこともあり、地元の企業様の手をお借りしながらの
手作業メインの「手作り引越」になりました。
デザイナーに依頼しての店舗設計・大企業の施工による旧店舗とは様々な点で異なりますが、自分達で作り上げた感の強い新店舗には
すでに愛着があり、きっとお客様にも旧店舗同様に親しんでいただける店になったのではないかと自負しております。
新しい増田電機をますますご愛顧いただけますよう、社員一同フレッシュな気持ちでさらに頑張っていこうと思っております。

増田電機も私で三代目になります。私が小さい頃はまだ先代の社長(私にとっては祖父)が健在で、
現社長(父)が夜遅くまで仕事に行っていたのを覚えています。なので、遊んでもらったのはほとんど祖父母でした。

今なお増田電機には先代の社長時代からお付き合いいただいているお客様がたくさんいらっしゃいますし、
現社長のお客様、社員の山本さんのお客様もいっぱいいらっしゃいます。
私も研修先から自店に戻ってちょうど10年目になります、これからもっともっとお客様から愛されますよう
三代目は危ないなんて言いますが、そうならぬように努めていこうと思います。

今回の移転オープンセールは、皆様の日頃のご愛顧に心からの感謝を込めて開催させていただきますので、
お忙しいとは思いますが是非ともご来店下さいますようよろしくお願い申し上げます。
社員一同、心より皆様のお越しをお待ちしております。

                                                                   新店長 増田 直樹



第4回(2009年10月)

このお便りも4回目になります。先回の店長の紋次郎だよりはいかがでしたか?
新しい店に越して約四ヶ月、やっと少し店の運営に慣れてきました。
以前の角地と違い、やや車での出入りに難がありますが、ご勘弁いただきたいと思います。
まだお出でいただいてないお客様には、今回の売出しを機に、ぜひ店をご覧になって下さい。

さて、今回は私の子供のころの話を少ししたいと思います。
私は小学5年生位まで、とても体が弱く、殆んど学校を休んでいました。
年度末になると担任の先生が帰りに寄られて、”何とか2日でも3日でもいいから
出席させないと留年になりますよ”とおっしゃって下さったこともあります。
運動会は見学、日帰りバスの修学旅行も留守番・・・帰ってきた皆の話がとても羨ましかったものです。
学校に行ってもとにかく体が重く、だるく、ぐったりしていると、先生に”文雄、帰れ”と言われて、
旭屋さんの辺りを歩いていると、すれ違う人の「この子はどうしたんだ」みたいな目が気になりました。
家で寝ていても、微熱があり、オジジが借りてきてくれる貸し本をひたすら読んでいました。

そのころは、お医者さんからもはっきりとわかる病名は聞かされなかったと思います。
今になってみると結核の初期というか、肺浸潤とか、そんなだったようです。
最近レントゲンを撮ったりすると、胸の上部に影が・・・とかで、CTを撮った結果は、治癒した跡、 という事がよくあります。

とにかく、そんな子でしたが、5年生の半ば位から、だるさが少しずつ無くなり、普通に学校に行けるようになって来ました。
宮内中学に入学してからは、何とか人並みに運動したいと思い、軟式テニスなら付いて行けるかと思って入部したら、
連日のマラソンとうさぎ跳びですっかり参ってしまったのですが、でもここで辞めたらと思い、
なんとか付いていっている内に、皆と新人戦に出られるまでになりました。

さあ、それからというものは、人と一緒のことが出来る喜びでもう、夢中でした。
テニスの腕はさっぱりでしたが、たまに練習の後に顧問の先生が、トン汁を皆で作ろう、と言って、
みんなで野菜を持ち寄って肉は先生が用意して下さって・・・それは楽しい思い出です。

体力がつくと多少は勉強にも身が入ってきました。中学から高校に進学して、
山岳部に入る、とおやじに告げたときの、ハトが豆鉄砲・・・みたいな顔は忘れられません。
もちろん大反対されましたが、とにかく人と同じことが出来る喜び、そして山仲間と、
同じように苦しみ、テントの中での馬鹿さわぎ・・・かつての私には夢のような世界でした。
とうとうそのまま三年間山を登り続けて卒業したのですが・・・

私は、人並みの体にならせて頂いたときから、とにかくその事の有難さ、普通に学校に行けることの素晴らしさ、
そしてそれが出来ない人の辛さ、少しは分からせて頂いたような気がします。
おかげさまでこの6月で63歳になりました。
この年まで、元気に商売をさせていただいて、お客様に可愛がっていただいて、いまだに山登りも出来て本当に感謝です。
おいしいお酒と付き合いながら、皆様にこれからもお世話になりたいと思っています。

                                                              2009年10月 増田 文雄

第5回(2009年12月)

今年最後の文仲だよりお届けさせていただきます。
寒さが身に沁みる季節になりました。いつも増田電機をご愛顧くださりありがとうございます。
皆様にはお風邪など召さないようになさってください。

今年は店の移転もあり、あっと言う間に12月になってしまいました。
また、自分の不摂生でお恥ずかしいことに痛風になったり、10月には年のせいでバランスが悪くなっていたらしく、
事務所で椅子に腰掛けそこなって背中を強打し、肋骨を折ってしまいました。
着実に老人の世界に踏み込んでいるこの頃です。

実は先日、あるお客様のご主人が91歳ほどで亡くなられ、お悔やみにお邪魔して来たのですが、
私も63才ともなりますと、大切なお客様が少しずつ他界していかれます。
その度に、ご仏前に手を合わせて、”お世話になりました”と心の中でつぶやく時に
ああ本当に長い間、私の商売を支えて下さったんだなぁとしみじみ思います。
そしてまた、こんな風にお世話になったお礼を亡くなられたお客様のご仏前に
お伝えできることの有り難さも感じさせていただいております。
つまり、私はいままで電気屋という商売をさせて頂きながら、本当にお客様といい関係を持たせて頂いたのだなと思っております。

こう書きますと、まるで明日にも私は商売から足を洗ってしまうように聞こえますが、そうではなく、
まだまだ今現在お世話になっているお客様とつながらせて頂きたいと思っております。
その為にも自分自身健康に留意しなければと感じますし、それにも増して皆様には、いつまでもお元気でいて頂きたいと思います。

今年もあとわずかになりました、インフルエンザが猛威をふるっております折、
皆様には健康で新しい年をお迎えくださいますようお祈りいたします。
また来年も増田電機をよろしく御願い申し上げます。

                                                           2009年12月吉日   増田電機 増田文雄



第6回(2010年3月)

新しい年、平成22年も、早いもので3月になってしまいました。
皆様、今年も素敵なスタートが切れましたでしょうか?
我が「文仲だより」もおかげさまで六回目の発行となりました。
今回は私がなんで「FMながおか」に関わっているのかについてお話したいと思います。

今から14年前の7月、新潟日報にFMながおか(仮称)という放送局を作ろうと、長岡青年会議所、
行政関係者を中心に、色んな職種の方々が集まっている、と言う記事が載っていました。
何にでもすぐに興味を惹かれる私は、すぐにその会の会長様にお電話し、参加させて欲しいと
お伝えしたところ、快く”次の会合においでなさい”ということで、首を突っ込むことになりました。

参加メンバーの中に、ひと際、電波に関する法律的、技術的知識が豊富な男性がいました。
彼と何度か言葉を交わすうちに、年が同じ、趣味の一つに山のぼり、そしてお酒・・・と言うことで
すっかり意気投合して、何度か酒を飲んだり山に登ったりしました。
そんな折、登山前夜、仮眠のはずの車中で、朝まで酒を飲みながら、彼はFM局を作る夢を、
私はもしFM局ができたらぜひ、ジャズの番組をやらせて欲しいと熱く語り合いました。

その彼が現在のFMながおかの社長であり、放送局長の脇屋雄介氏なのです。
そして翌年には、長岡祭りの大花火大会の中継の臨時イベント局として「FM三尺玉」という名前で、お祭りの三日間放送が行われました。
これを実績にして、その翌年いよいよ「FMながおか」が生まれたのです。

そして、私の夢も、局長の彼から”スポンサーが見つかったら、番組をやってくれ”と言葉を頂き、
4社のご協力を頂いて”JAZZYな夜”がスタートしました。
以来十余年、回数も500回を超えまして、局の中でも一番の長寿番組になりました。ひとえに、
お聴き下さる皆様、スポンサーの皆様、スタッフのおかげと感謝しております。
毎週土曜日の夜10時から30分間のつたない番組ですが、皆さん、チャンスがありましたら、ぜひ一度お聞きください。
今回もお読みいただき有難うございました。

                                                                     2010年3月 増田 文雄



第7回(2010年5月)

不順だったお天気もようやくいつもの年のようになって来ました。
でも、こんな事は私の64年間の人生で初めてではないかと思います。
私たちの住んでいるこの星の将来が心配ですね。

先日、思い立って長野の松代(マツシロ)に行ってきました。
目的は約10年前に訪れた、旧日本軍の大本営跡です。

ご存知の方もおありかと思いますが、松代象山地下壕は太平洋戦争末期、軍部が本土決戦最後の
拠点として、極秘のうちに大本営、政府各省等を松代に移そうという計画の下に構築したものです。

昭和19年に着工し翌20年8月15日まで、約9ヶ月の間に当時のお金で約2億円と
延べ300万人の住民及び朝鮮人が強制的に動員され、1日3交代、徹夜で工事が進められました。
食料事情も悪く、工法も旧式な人海戦術で、多くの犠牲者が出たようです。

碁盤の目のように掘りぬかれたそのトンネルの総延長は10キロメートル余に及んでいます。
10年前に訪れた時は、トンネルのあまりの大きさと深さ、そしてトロッコの線路の跡、
ダイナマイト用の穴など、生々しい様子に息がつまる思いでした。

先日、もう一度訪ねてみたくなって行ったのですが、ヒンヤリと冷たい空気の中で改めて
戦争の愚かしさ、犠牲になった方たちの無念さを想いました。
その後、皆神山の地下の、天皇が住むための、屋根のコンクリートの厚さが1メートル以上もあるという御座所跡等を見るにつけ、
戦争は人をこんなにも狂気にしてしまうものかと思い、今の平和の大切さを感じます。

本当に月並みな言葉しか思いつきませんが、気候の事や経済の事など色々心配事はたくさん
有りますが、それでも今のような平和な日本が続くようにと思いました。
松代を訪れて、大分生意気なことを言ってしまいました。


                                                                      2010年5月 増田 文雄



第8回(2010年6月)

いよいよ、暑い夏が目前ですね。体調に気をつけて乗り切りきりましょう。
さて、今回は6月25日で64歳にもなる私が何で、あちこちのお祭りのステージで、
エレキギターでベンチャーズなんぞを演奏するちょいワルおやじになってしまったのかをお話しさせてください。

あれは、9年前の55歳の夏でした、湯沢から土樽の方の山に入っていきますと、「加山キャプテンコースト」というスキー場があります。
そこで、夜はベンチャーズ、加山さんとワイルドワンズ、イルカ、昼には全国からオヤジバンドが大集合して、
本物のベンチャーズが困るのでは?と思わせる素晴らしい演奏を繰り広げていました。
それを聴いた私はすっかりその気になってしまい、帰って息子に話しましたら、“俺のギター貸してやる”と言ってくれて
(確か私の仕送りで買ったハズ)と思ったのですが、ま、グッと抑えて・・・・・・。
で、恐る恐る弾いてみると、エレキの音がするではありませんか! (当たり前か・・・)
それからというものはすっかり嵌ってしまい、バンドカラオケ(そんな物があるんです)のCDを買ってきて、
とにかく一曲でいいから弾けるようになりたい、の一心で練習しました。
どうにも弾けない所があって息子に聞くと、”オヤジ、そんなのは似たように弾いてればわからないんだよ”と言われて、
励まされたような、情けないような思いでした。

そのうちに、どうやら一曲だけカラオケについて行けるようになった頃に、ある居酒屋さんで現在のベースギター担当の歯医者さんと出会い、
週に一度私の店で二人で練習しているうちに、息子が”俺もやるよ”と言ってリズムギターになってくれて、
三人でやっているうちに、やっぱりドラムが欲しいね、なんて言っていたら、
ある人が”昔ドラムやってた人がいるから紹介してあげる”と言って連絡を取ってくれ、ドラムが現れました。
これでベンチャーズスタイルの四人が揃ったわけです、そしてそのうちに、私が参加している雅楽の会の集まりの席で、
”キーボードを弾く人が欲しい”と申しましたら、”私、弾けます”と名乗り出てくださった方があり現在のメンバーが揃いました。
その後、店の近くの喫茶店で知り合った女性がボーカルに入ってくれて、8年が経ちました。

思えば、不思議な縁で出会ったメンバーだと思います。今やレパートリーも40曲近くになり、あちこちで楽しく演奏させて頂いています。
私は、巡り合ったこのメンバー達と楽しい老後が送れるかな・・・・・・なんて思っています。
今回もくだらないことを書いてしまいましたのに、読んでくださってありがとうございました。

                                                                      2010年6月 増田 文雄



第9回(2010年10月)

春先のいつまでも続く寒さから一転して、梅雨があけたとたん誰も経験したことのないような猛暑。
やっとの思いで乗り越えた夏も過ぎ、一気に暖かい布団が恋しい季節です。
“めまぐるしい”と言う形容がピッタリの年です。

当店、そして我が家にとっても今年は忘れられない年になりました。
祖父、父、母と、家族を順に失ってきましたが、今年の一人はやはり、衝撃でした。
このことにつきましてはいつか触れたいと思いますが、今回はそれによって当店の体制を変えさせていただきましたのでご報告したいと思います。

もう26年も前になりますが、私が38歳の時に父(先代の社長)が他界しました。72歳でした。
いきなり社長を任された私でしたが、本当に良い人材にめぐまれ、花園町に支店を、6年後に宮内の本店と花園店を統合して曙に新店舗を建て、
そして昨年現在の場所に引っ越しました。
社員に恵まれ、お客様に支えられ、相棒の女房の協力もあってここまでやらせて頂いてまいりました。

現在、息子(店長)が38歳なのですが、彼は私が父を失った年齢と同じ歳に母を失ったわけです 。
私は以前から早く社長を交代しなければ・・・と思っておりましたので、良い機会と思い、息子に相談したところ承諾してくれました。
経理事務所様にも相談し、会社の定款も変更して、代表取締役を息子の直樹に、私は会長ということになりました。
私も今まで通り仕事も売り上げも頑張るつもりですが、責任の所在が変わるということは大切な事と思っております。
より大きく成長してくれる息子の新社長がお客様方皆様に支えられて、増田電機をさらに良くしてくれる姿を見守って協力していくつもりです。

皆様には新体制の当店を、以前にも増してご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
寒さに向かいます折、皆様にはご自愛くださいますよう・・・。
                                                                       2010年10月 増田 文雄



第10回(2011年3月)

本年最初の売り出しのご案内と一緒に、第10回目の文仲だよりお届けします。
今回は、私がベンチャーズエレキバンドと共にもう一つ関わっている、雅楽愛好会の事についてお話したいと思います。

今から10年前の2001年9月、飲み友達で山仲間でもあるFMながおかの社長、脇屋雄介氏と苗場山に登山した時のことです。
里に向かって下っているときに、彼が「今日は帰ってから西楽寺で集まりがある」と言うので、お寺で何が?と聞きましたら、
「雅楽の会を立ち上げたんだよ、今日が第一日目なんだ」とのこと、またまた物好きな私が俺も行ってもいいか、と言ったのが運のつき、
そのまま引きずり込まれてしまい、今日にいたっています。

雅楽は1400年以上も昔に大陸から日本に伝わり今日まで受け継がれている音楽ですが、
宮内庁の雅楽士だった東儀秀樹さんが現代音楽と融合させて、一般に広く知られるようになりました。
市立劇場でも10年くらい前にコンサートがあり、ブームになっていました。
私が関わった楽器は龍笛(りゅうてき)という横笛と、楽太鼓と呼ばれる、派手な飾りのついた大きな太鼓です。

龍笛は音は出たのですが、最初は息が続かず、練習していると貧血になって目の前に白い点が飛んだものです。
でも、その内に三々九度でお馴染みの「越天楽」が吹けるようになり、他の楽器、笙、ひちりき、鞨鼓、箏、琵琶等と合奏した時の
なんともいえないみやびな雰囲気にすっかり魅せられ、月2回の西楽寺さまでの練習に通っているうちに、
曲目も増え、素敵な仲間にも恵まれて今日まで続いてきました。

春のお雛様の頃には、市内の町田園でお年寄りの皆さんに聞いていただいたり、桜の頃には福島江の桜祭りで演奏したり、
つつじの頃には与板の楽山苑のライトアップの下でコンサートしたり・・・と、雅楽も思ったより楽しいものです。

日本古来の音楽で、堅苦しいイメージもありますが、そんな事はありません。
機会がありましたらぜひ一度私たちの雅楽をお聞きになって頂きたいと思います。
今回も好き勝手な事を書いてしまいました、お許しください。

                                                                            2011年3月 増田 文雄



第11回(2011年6月)

いつもの年なら雪解けになって梅雨に入る前の今頃が一年で一番過ごしやすい時なのですが、今年もなんだか気温が安定しません。
昔の人は『いつでも六月の様な気になってるんじゃないぞ』等と言ってこの季節の過ごし易さに例えて、
人生好い事ばかりはないぞ、と戒めたものですよね。

ところで、3月11日、大変な災害が起こってしまいました。
先の見えない不安に、被災地の方々はもちろん、遠く離れた私達も気持ちが晴れない日々です。
私も、何か出来ないものかと思い、灯油をポリタンク10本、軽のバンに積んで3月23日に郡山の被災者センターまでお届けして来ました。

その後、ある朝のテレビでどこかの避難所の方が『衣類は足りて来たが入れておくものが無い、こんな場所なので
タンスという訳にもいかず、バッグみたいな物があれば、また移動しなければならない時にも助かる』と話されていたのを見て、
「そうだ、去年他界した女房の遺品の中に、旅行カバンやバッグがいくつかある。これをお届けしたら・・・!」と思い、
インターネットで探した避難所のリストから、仙台市宮城野区の岡田小の避難所に電話したところ『ぜひ・・・』とのお返事でしたので、
4月の13日にお届けに上がりましたら、そこの責任者の方が(ご自分も自宅が流されたそうなのですが)大変喜んでくださってびっくりしました。

その後、『通行証を出すから、ぜひ海岸の近くまで行って惨状を見ていってください』と言われ、
一度は辞退したのですが、ぜひに、ということで行ってみました。
そこで目にした風景は、テレビで見るのとはまるで違い・・・見渡す限りの瓦礫と泥の世界の中に、逆さまになった車、車、車・・・
ひしゃげた大きなタンク・・・風だけが吹いて音の無い、シーンとした世界。言葉も出ません。
後日、夜8時頃、その避難所の責任者の方からお礼の電話を頂いた時には、あちらも大変な時なのに・・・と思いましたが、
そんなに喜んでくださって私も行動して良かったな、と思っております。

この災害は先の長いことになるんだと思います、私達も一時のことでなく、何かお手伝い出来ることを考え続けなければ、と思います。
明るい話題でなくて申し訳ありません、また、次回もよろしくお願いいたします。

                                                                            2011年6月 増田 文雄



第12回(2011年10月)

残暑も彼岸を境にすっかり影をひそめてしまい、布団が離せない季節になりました。
さて、今回は私の大好きな銀山平【ぎんざんだいら】のお話です。
私の不確かな知識ですので、間違いがありましたらお許しください。

今から350年前の寛永18年、折立の百姓、源蔵が只見川の天狗平で川鱒取りをしていて
銀の鉱石を見つけたことから、銀山の歴史は始まります。
それから十数年後、小出から銀山に至る間には宿場と御番所が設けられ、無人だった原野が鉱山街として栄え、
最盛期には約2万5千人が働き、約1000軒の家が立ち並び遊女までが姿を見せたといいます。
しかし、宝永3年の坑道崩壊事故後、鉛の採取に変わり、安政6年には坑道を掘り進んでいる時に只見川の底を破ってしまい、
300人余が亡くなる事故をおこし、2世紀以上にわたる鉱山の歴史は幕を閉じます。

さて、私があるお客様から只見川沿いに存在したある分校のお話しを伺ったのですが・・・
それは銀鉱山が幕を閉じたその後、昭和36年に奥只見ダムが完成して銀山平の大部分が湖底に沈んでしまうまでの間の出来事なのです。
当時新任の教師であったそのお客様は、僻地赴任として、湯之谷小学校の分校であった浪拝(なみおがみ)分校に着任しました。
昭和27年から30年の間であったといいます。まさにダムの湖底に沈む直前のことです。

朝、小出を発って大湯を通り、枝折峠を越えて石抱(今の銀山平)に入り、浪拝の分校にたどり着いたのは夕方だったといいます。
そこに赴任されていた時にカメラに収めた写真を何枚か見せて頂きました。
小さな作小屋かと思うような分校に生徒が10人足らず、着物を着ている子が大半・・・
お天気の日は机を外に出して授業、手回しの蓄音機の周りに集まってレコードを聴いている子供たちの輝くような笑顔。
授業が終わって帰った子供が無事に家に帰りついたかどうか、途中で崖から落ちてはいないか・・・
電話も電気も無いわけで、翌朝、おはようございます、と言って顔を見るまで分からないのだそうです。

そんな3年間の記録の中には・・・立派な岩魚を焼いて、川っぷちの温泉につかる男衆。
かご渡しに乗って向こう岸に帰っていく女の子。
今の時代が失ってしまった、何とも言葉で言い表せない世界です。

あの子供たちも私くらいの年頃ですので、あちこちで立派になっておられるとの事です。

今、銀山平に行って只見湖の下の写真に写っていた世界に思いを馳せます・・・・・・
銀が見つかる以前、銀で大騒ぎの時代、銀鉱山が終わって電源開発が始まるまでの再び静かな時・・・・・・
それらの歴史をすべて秘めた湖・・・大好きな銀山平です。

                                                                            2011年10月 増田 文雄



第13回(2011年12月)

今年もあとわずかになりました。平成23年最後の文仲だよりをお届けします。
先日、なにげなく免許証を見ていました。今年の6月に交付されたものと5年前のものを比べると、
自分の頭が本当に白くなったのにいまさらびっくりです。
じゃあ、そのまた5年前はどんなかと思い(馬鹿ですね・・・)古い免許証を見ましたら、交付がその3年前であることに気づきました。
何で5年前でないのかと思いましたら、私は平成15年10月に大型免許を取得していたのでした。
今回はその大型免許の試験を受けた時のお話を少し・・・

平成15年、57歳になった私は生意気にも『60歳近くなってもう一度何かに挑戦してみたい』、
『そうだ、二種免許をとってみよう』と思い立ち、某自動車学校に申し込みました。すると担当の方いわく、
「60歳近くなってタクシーのドライバーでもするのですか?
それより大型免許をとって、保育園か老健施設の送迎バスでも運転したらいかがですか?」と。

私は、老健施設のバスなら、運転するより自分が後ろの席に車椅子ごと乗る時期が近いのに・・・と思いましたが、
そうでもあるかと思い直し大型免許に挑戦することになりました。

当時、まだ元気だった女房と息子夫妻に相談し、週二回の授業に通い始めました(実技だけですが)。
まずは大型車の周囲を説明を聞きながら回り、その大きさを実感します。
そして運転席に座るとまぁ、その高いこと!遠くに富士山が見えるようでした(ウソ)。
コースに出て運転した時の、最初の驚きはブレーキでした。
いわゆるエアブレーキというやつで、教官が『一度思い切って踏んでください』と言うのでその通りにしたら、
大型車が前方一回転するのではないかと思うくらいガッツーンと止まってくれました。
教官はこともなげに『これがエアブレーキというものです。』と・・・・・・。

以降は、2日目、3日目と順調に進み、私も内心『大型車の運転と言ってもこんなものか』などと思い始めた頃、
4日目位に今までと違う教官になり、その日は一転してハンドルさばきからサイドミラーの見方、ブレーキの踏み方、
全てをけなされたあげく『あなたは運転の適性が無いのじゃないか』とまで言われる始末。
でも、後で考えてみれば、あれは途中で一度コワイ教官につかせて、私の慢心を抑えて下さったのだと思います。

とにかく練習中に言われたことは、『あなたは道路上において最強の車を操っているのです、
他の車と歩行者をいたわる意識を持ちなさい、右左折時はルームミラー、サイドミラー全てを見る癖をつけなさい』などなど。
考えてみれば普通車でも当たり前の事なのですが。
でもおかげで今でも軽に乗ってもミラーを良く見る癖は抜けません。
路上教習で市内を大型車で回ったときに、高くて前方が良く見えて楽しかったこと、何も考えずに運転だけに集中する時間、
あの時はつくづく『これだけ運転だけに集中していれば、事故なんか起こさないんだろうなぁ』なんて思ったものでした。
結果はめでたく合格、楽しい経験でした。

あれ以来、大型車に乗るチャンスはありませんが、運転は少しはマシになったのかな?なんて思っています。
せっかくのゴールド免許でもありますので、良い子で運転し続けたいものです。
いつの日か、どこかの老健施設のバスを運転して皆様方の誰かサンをお乗せできるかも・・・
いや、私が後ろに乗るのが先かな?          

よいお年を

                                                                            2011年12月 増田 文雄



第14回(2012年3月)

平成24年、第一回目の売り出しのご案内と文仲だよりをお届けします。
この冬の雪には久しぶりに参りましたね、皆様お身体大丈夫でしょうか?

さて、最近新聞の読書欄を見ましたら、五木寛之さんの「下山の思想」という本がありました。
タイトルが気になったのですぐに注文し、手にするのを楽しみにしているところです。

一昨年、妻の他界をきっかけに息子に社長を代わってもらった私ですが、
その後の気持ちは、 ホッとした気持ち・・・少し心配な気持ち・・・そして何とも言えず淋しい気持ち、とさまざまです。
そんな気持ちになった時に、大好きな登山に自分の生き様を重ねてみました。

山登りは、頂上を目指して頑張っているときは、心も体も充実して(そうでないと登れませんが)、刻々と変わる景色に胸を躍らせて登っていきます。
そして頂上で素晴らしい眺めを楽しみ、 山仲間と語り合ったり、おいしいビールや食事・・・と最高の充実感です。
でも、どんなに素晴らしい山であっても、頂上で暮らすことはできません。必ず下山しなければ ならないのです。
頂上に別れを告げて降り始めるときはなんとも言えない気持ちになります。
でも、自分自身に「下りるんだ」と言い聞かせます。

山で怪我をしたり、事故にあったりするのは殆んど下山のときです。
登りで体力を消耗した後で下りを歩くのですから、登りよりも集中力と注意力が必要なのです。
そして、長く続く下りは、登りよりも辛く苦しいのです。
それを頑張って無事に里に下りて、やっと登山が終わるのです。

私は人生の後半は、山の下りに似ているなとつくづく思います。
うまく降りないと、気持ちのより所を失ったり、目的を見失ってひどいときはウツになったり、 お酒に頼ったりと、色々あると思います。
私も、「そんな時には山の事を思い出せばいいんだな・・・」なんて思いかけた時に、五木寛之さんの本のタイトルに出会いました。

この文仲だよりが皆様に届くころには、私も「下山の思想」を手にしていることでしょう。
どんな内容か今からワクワクしています。読み終えましたら、いつか感想をお届けしたいと思い ます。

                                                                 平成24年3月 増田 文雄



第15回(2012年6月)

いつも御世話になっております。15回目の文仲だよりお届けします。
放射能に竜巻と、私の子供の頃には、よその国の事と思っていた言葉が毎日のように新聞に載っています。
私たち人間のしてきたことに対する自然からの警告なのでしょうか。

さて、何回か前に銀山平の事をお話ししました。今回はそこで出会った方のお話です。 少し悲しいお話になることをお許しください。
私の息子(現社長)が保育園、娘が小1くらいの頃から毎年のように、8月の終わり頃に
銀山平の船着場の前にあるお土産屋さん(当時は幸次郎商店という名でした)が経営していたバンガローに、
私の家族と私の店に遊びに来てくれていた若者達(今はもうみんな良いお父さんです)と一緒にキャンプに行っていました。

そのお土産屋さんの娘さんのところにお婿さんが来たのです。
その方は、中根真太郎さんといい、体育会系のガッチリした方で、日大の芸術学部出身とのことでした。
私は彼と初めてお会いしときから意気投合し、以来何十年とお付き合いが続いてきました。

銀山平のキャンプは子供たちが進学して家を離れるまで続きましたが、私はその後も尾瀬に行けば帰りに寄り道して彼の店に顔を出し、
夏の暑い日に銀山平に遊びに行けば必ず彼の店でコーヒーをいただいて、温泉に入ったりしていました。
お店も先代のお父様お母様が亡くなられた後、「尾瀬三郎商店」と改称、建物も大きく建て替えて発展されていました。
店には色々な物が売っていますが、中に地酒で「尾瀬三郎」というのがあり、その醸造元が小千谷にありまして、
新酒の季節には酒蔵見学会と彼の店のファンの集いを小千谷サンプラザで毎年催していました。

そのイベントに私たちのベンチャーズバンドも何度か呼んでいただきました。
そして今年も恒例の尾瀬三郎の集いをやることになり、3月4日の本番に向けて私たちも練習に励んでいました。
その矢先、突然彼の訃報が届きました、心筋梗塞だろうということですが、新潟バイパスの路肩に止まった車の中で亡くなっていたとの事です。
本当に大切な人を失ってしまいました。
あの店に行くと、必ずホルダーにさしたタバコをくわえながら『おぅ来たな、長岡のオヤジ、コーヒー飲んでいけ』と言ってくださった声が耳に残ります。
5月に入って銀山平のお店に電話してみましたら、奥様が出られて『娘がやろう、と言ってくれたので、今年も11月初旬まで頑張りますよ!増田さん』と話してくださいました。
とても嬉しかったです、早速お悔やみを兼ねて顔を出して来ようと思っています。
皆様も、もし銀山平に行かれましたら、ぜひ尾瀬三郎商店の奥様に一声かけてあげて下さい。

                                                                              平成24年6月 増田 文雄



第16回(2012年10月)

猛烈な暑さも去り、すっかり秋になりましたね。
今回は恥ずかしながら孫への想いを書いてしまいました、お許しください。
登場人物は、孫の悠平、私、そして私の孫じいさんの増田九馬吉オジジです。

悠クン、町内の集合場所まで送っていく朝・・・暑くて日陰を探していたのに
いつの間にか日のあたる所を探す季節になったね。
友達と一列に並んで歩いていく君のうしろ姿を見ながら思います。
また、次の暑いシーズンが来るころにはもう三年生なんだね。
そしてそれを何回かくり返すと悠クンはいつか、『じぃじ、もう送らなくっていいよ』という日が来るんだね。

思えばじぃじも幼稚園の頃、孫じいさんが毎日、宮内中の隣の保育園までついてきてくれて、
殆んどお帰りの時間までグランドの隅でキセルタバコを吸って待っていてくれたそうです。
どうしてって?
それはね、じぃじが孫じいさんの九馬吉さんの姿が見えないと、泣いて大変だったからだよ。

そんなじぃじも高校生になりガールフレンドなんぞが遊びにくるようになると
孫じぃさんのオジジをうるさがるようになってしまいました。
その時のオジジのとても悲しそうな淋しそうな目を、じぃじは良く覚えています。

悠クン、君にもやがていつかそんな日がきて、じぃじも同じ思いを味わうんだろうね。
もちろんそれでいいんだけれど・・・・・。
だから、じぃじは今は一生懸命、毎朝悠クンを送って行き、帰って来ると『おかえり』って抱きしめます。
一緒のお休みには、いっぱい色んな山に登ろうな悠クン、そして早くじぃじから離れていくんだぞ悠クン!

じぃじより

                                                                              平成24年10月 増田 文雄



第17回(2012年12月)

また、寒さと戦う季節がやってきました。冬来たりなば、”春遠からじ” といいますよね。
頑張りましょう。17回目の文仲だよりお届けします。
最近、大手家電メーカーの業績不振が言われています。巨額の赤字が報告され、メディアの論評でその原因といわれる事柄が指摘されています。
巨額の設備投資とそのタイミング、外国メーカーとの価格戦略のミス、高度な技術と付加価値を追いすぎた・・・等々。
それらは高い知識を持った方々の意見ですので、確かにその通りと思います。でも、私にはどうも別の所にも問題があるように思えてなりません。  

私の店には、恥ずかしげもなく “修理名人” などという看板を掲げてあります。
そのせいか、電気製品はもちろん、古いステレオのアンプやプレーヤー、スピーカーなども修理に持ってこられるお客様がいらっしゃいます。
物によってはもう部品が手に入らなくなっていたり、そのメーカーすら消えてしまっていることもあります。
すると私は昔、アマチュア無線で無線機を作ったり改造したころの気持ちで、なんとかこうとか、元通りに近い状態に直してさしあげています。
直った大切なオーディオをとても嬉しそうに抱いて帰られるお客様の姿を見送るのは、とても張り合いがあります。

先日こんな事がありました。14年ほど使用していただいた空気清浄機のフィルターをご注文いただきメーカーに発注したところ、
もう製造していないとのこと。本体は全く正常なのです。なぜ掃除機の紙パックのように継続しないのでしょう?
また、最近はビデオデッキが消えつつあります。年配の方にとっては今どきのハードディスクや ブルーレイよりも、使い慣れたビデオの方が楽なのです。
8ミリビデオやベータに至っては、もはやテープを見るすべもありません。

私が言いたいのは、メーカーは新しいフォーマットばかり追いかけて、お客様を置き去りにして いないでしょうか?
外国メーカーの安い物よりも、国産ならずっと安心して永く使えるという信頼を裏切ったことが本当の原因のような気がしてなりません。
こんな思いの電気屋もあることを大メーカーの幹部に伝えたいものです。

かなり生意気なことを書いてしまいました、お許しください。


                                                                              平成24年12月 増田 文雄



第18回(2013年3月)

また今年も春の売り出しのご案内をお届けする時期になりました。
文仲だよりをお届けするようになってから、もう何回目の春でしょうか。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、今回は少し情けないような体験をお話ししようと思います。
あれは二月の半ばころ、どうにも腸の具合が思わしくなく、かかりつけのお医者様から
紹介状を頂いて、総合病院にて大腸のカメラを入れることになりました。

実は大腸カメラはこれで3回目なので、準備の腸洗浄液などは経験済みなのですが、 さすがにカメラが入ると所々でつらくなります。
とにかく耐えるしかない事なので、唸りながら我慢するのですが、何と言いましょうか、 心細さと辛さがまぜこぜな感じです(大分おおげさですが)。

そんな最中に看護師の女性が「痛かったら力を抜いて下さいね、ずっと辛いわけではないですヨ。」
とおっしゃりながら、私の足を「トントントン」とたたいて下さるのです。 その感覚が魔法のように感じたのです、不思議な感じでした。
そして、苦しい感じと心細さがスーッと少し楽になったのです。

看護師さんにとっては毎日の仕事の繰り返しの中での行動なのでしょうが、本当に有難かったと思っています。
おかげさまで結果もOKでした。

この文面が届くはずもありませんが、あの看護師さんにはぜひ、あの「トントントン」を お続けになってほしいものです。
弱った年寄りの感想でした、今回もお読み頂いて有難うございます。

                                                                       平成25年3月 増田 文雄



第19回(2013年6月)

やっと暖かい日が続くようになってきました。19回目の文仲だよりお届けします。
いつかの大型車免許に続いてまた、必要もないのにバカな挑戦をしてしまいました。
ナント、それは「二級小型船舶操縦士免許」です(エラソウ!)。
それは一体どんな免許なの?とお思いでしょうね。簡単に言えば岸から10キロ弱まで行ける免許です。
何のために?と聞くんでしょうネ。ダ、カ、ラ、船に乗る目的は無いのです!笑って下さい。

実は、石地で船をお持ちの80歳にもなろうかというスーパー爺様が、2年位前から私をキス釣りに連れて行ってくれるのです。
初心者の私でも釣れるよう、船を巧みに操って楽しませて下さいます。
ある時私が「船の免許を取るのは大変なの?」と聞きましたら、
「簡単だ、実技試験は向こうの杭を回ってくればOKだし、学科も4択で丸をつけておしまいなんだ」と言うではありませんか。
私はムラムラと「こんなジジィに負けてたまるか」と思い、「よし、受験の手続きお願いします!」と言ってしまったのです。

届いた書類を見ますと、4月14日(日)に学科講習、17日(水)に実技講習(船の操縦)、そして21日(日)に両方の試験があるとのこと。
私は、たった一週間でコトが終わるなんて、聞いた通り簡単なんだな・・・と思っていました。
ところがこれが大違いで、大変なことになってしまいました。
まず14日に柏崎の会場で頂いた教科書が150頁もあり、問題集に至っては約700問もあるのです。
試験はこの中から50問、しかも何が出るか判りませんから一応全部挑戦しなければなりません。
丸一日講義を受けボーっとして帰りましたが、まだ軽い気持ちで、時々問題集をやる程度で17日の実技講習に行きました。
操縦の合間に他の人にどの位勉強が進んだか聞くと、「俺は全問を3回やったけどなかなか解らない」、
「僕はまだ、2回とちょっとです」なんて言うではありませんか!私はまだ1回目の3分の2位しか終わってないというのに・・・

とにかくその日は一日操縦でした。いやもう、車の運転の比ではない難しさです。まっすぐには 行かないし、
頻繁に周りの安全確認をしなきゃならないし、着岸に至ってはとてもじゃありませんが目指した所になんか行かないのです。
その他諸々、もう頭の中がパンクしそうな位覚える事がありました。
またボーっとして帰ってその日は飲んでおしまいでしたが、さぁ、翌日からは夜7時に閉店後、
スタジオにこもって深夜まで問題集です。久々に3日も酒を飲まない日が続きました。
そして日中は暇さえあれば実技のイメージトレーニング、やった事も無いロープ結びの練習・・・
いやぁ高校受験以来のお勉強でした(大げさか)。そしていよいよ21日の試験に向かいました。
何、結果は? ですって・・・ ウーンそれは売り出し当日においで下さい、白状しますから・・・・・

                                                                      平成25年6月 増田 文雄

第20回(2013年10月)

台風18号を境に、あの夏の暑さは去ってしまいました。20回目の文仲だよりお届けします。
今回は、少し変わったところに在った居酒屋さんのお話です。
尾瀬への福島県側の入り口、檜枝岐〔平家の落人伝説があります〕の、
何軒かある旅館や民宿の間を縫って流れる川のほとりに、その居酒屋 “旅路” はありました。

6年位前です、尾瀬に行く為に檜枝岐で車中泊をした時に、一杯飲む所はないかな・・・と、村の中をうろついていましたら、その店が有ったのです。
入ってみたところ、そこには山の雰囲気があふれ、ザイル、ピッケル、カンジキ、熊の毛皮・・・
ご主人はたった今、釣りから帰ったところで、「今夜は美味しいイワナを食わせるよ」とおっしゃるではありませんか。

すっかり嬉しくなってご主人と酒を酌み交わし、いろんなお話をお聞きしました。
遭難救助隊に所属されていて、苦労話も話してくださいました。男のお子さんが二人いて、字は忘れましたが
『れん』君と、『じょう』君だったと思います。今頃はもう中学生と小学校高学年になっているはずです。

山談義に時間も忘れて飲んで、車に戻って朝までバタンキューでした。
それから2〜3年たって再び訪れたときも変わらない笑顔で迎えて下さり、又も山と酒の話で盛り上がったものです。

そして今年、木曾の駒ケ岳に登った帰りに、来年は会津の駒ケ岳に行こう、と話が決まり、ならば檜枝岐の”旅路”さんで
にぎやかに盛り上がりましょう、となってさっそくその場で電話したのです。
奥さんが出てくださって、「長岡の増田です」というと、すぐにご主人に代わってくださり、来年お邪魔したい旨話しましたら
「増田さん、実は去年で店を閉めたんだよ」と言うではありませんか。
「エ、どうしました、体でも悪いのですか」と聞きましたら、そうではなくて、あの3.11以来、福島の檜枝岐は客足が激減したとのこと。
旅館も民宿も何軒か閉じたそうです。ご自身はこれから学費のかかるお子さんのこともあり、営林署の臨時職員となっているそうです。
それでも「来年はぜひ来てください、親しいお店を紹介するし、自分も一緒に参加するから」とおっしゃってくださいました。

3.11のフクシマのことが身近に感じられた出来事でした。自分の不真面目さで商売がダメになるのではなく、本当に理不尽なことです。
原発の罪深さを今更ながら思います。
つい先日も銀山平の釣り宿にお昼を食べに寄ったときに、最近釣り人の数が本当に少なくなったと嘆いておられました。
中禅寺湖の釣り宿の仲間も同じだそうです。

私などには何の応援もできませんが、せめてチョクチョク訪れて顔を合わせて来たいと思います。
またいつか、様子をお伝えしますね。 ありがとうございました。
  
  

                                                                     平成25年10月 増田 文雄

第21回(2013年12月)

平成25年最後、第21回目の文仲だよりお届けします。
今回は、タイムマシンに乗ったお話です(少し大げさですが・・・)。
先日、ある写真集を手に入れました、新・旧長岡各地の昭和の懐かしい写真が収まっています。
その中に何枚か私にとって、思い出のこもったものがありました。

1枚は、私が卒業して商売を継いで2年目位の頃、親父と相談して、「お客様を店にお招きして料理教室や手芸教室なんかをやったら、
お客様ともっと親しくなれるのではないか」と始めた【東芝サロン会】の写真です。
今はすっかり素敵なおばあちゃまになられた、当時のあねさま。
もう旅立たれた、お菓子屋の、燃料屋の、そしてパーマ屋のおばあちゃま・・・。
皆さん真剣な目で講師の手先を見つめています。

もう1枚は、高校生の頃、中間試験や期末試験の折に「徹夜勉強」と称して仲良しの同級生に泊まりに来てもらい、
勉強なのか、青春の楽しい語らいなのか・・・そして、頭を休めると言っては夜中に2人で教科書を持って行き、
なるべく明るい改札口の所で英単語を覚えた懐かしい宮内駅。

そしてなんともう1枚は!!!!!!
文仲だより第16回にも書きましたが、私は孫じいさんが一緒にいないとダメな保育園時代でして、
いつもオジジが宮栄の保育所に一緒に通ってくれていました(あぁ恥ずかしい・・・)。
その保育所の、昭和27年頃の親子、先生方の集合写真がありました。
天眼鏡で探しましたら、左端にオジジが着物姿で居るではありませんか!!!
嬉しくなって子供のところを探すと、ボーヤ刈りの私が写っています。
いやー、オジジには難儀かけたんだなと、つくづく思いました。
でも今、私が孫の悠平が可愛くてたまらない事を考えますと、オジジもきっと嬉しかったのかなぁ、なんて勝手に思っています。

そして、その写真には、私とは別の小学校に行った後、10年後に高校で出会うことになる、さっきの宮内駅での同級生もいたのです。
そのことを彼と語り会いたかったのに、彼は40代の若さで旅立ってしまってもう居ません。
タイムマシンに乗って、昔の宮内の店に、オジジに、懐かしい友に会えた素敵な旅でした。

 今年も一年間、つたない文仲だよりをお読みいただいて有難うございました。
来年も増田電機をよろしくお願いいたします。

                                                                       平成25年12月 増田 文雄



第22回(2014年3月)文仲だより 番外編「紋次郎だより」

※紋次郎とは、当時流行の時代劇「木枯らし紋次郎」を見た勢いで会長が私(直樹)に付けようとした名前です。

いつも「文仲だより」をご愛読くださり誠にありがとうございます。
今回は番外編としまして、会長に代わり私・増田直樹が「紋次郎だより」をお送りいたします。

早いもので、年が明けてもう三月、春ももうすぐそこまでやって来ていると思うとうきうきとしてきます。
今シーズンは、雪の降り始めは早かったですが、ここ数年のような大雪に見舞われることもなかったので過ごしやすい冬だったと思います。

それから、今年は冬のオリンピック『ソチオリンピック』が盛り上がりました!10代の若きメダリストから、ベテランのメダリストまで本当に大活躍でした!!
残念ながら、あと一歩というところでメダルに手が届かなかった選手もいましたが、みんな『精一杯やり切った』という様な清清しい表情が印象的でした。
個人的には、同年代のスキージャンプ葛西紀明選手(41歳)をめちゃくちゃ応援しました!!

さて、話は変わりますが(冬の話題ということでは共通ですが)前回イベントでご紹介した電気を使った屋根融雪システムを紹介したいと思います。
屋根融雪と聞くと、屋根に温水を回す管を這わせるんだろうなとか、一旦屋根を剥がしてヒーターを埋め込むんだろうなとか想像すると思います。
が!この屋根融雪システムは強靭なテフロンヒーターを特殊なアルミテープで直接屋根に貼り付ける、というものですので…

@屋根の葺き替えをすることなく工事が可能。
A試しにちょっとだけの部分施工が出来ます。
B軒先の落雪防止、氷柱、雪庇防止工事も出来ます。
C屋根材の表面にヒーターがあるため熱効率が抜群!
Dメンテナンス不要で長持ち!

と、他にも色々な良い点がございますが、何といっても冬場の大変な雪下ろし作業から開放される『屋根融雪』安全、快適な冬が過ごせます。
気になるのが電気代かと思いますが、融雪用の電気料金というものがございますので、まずは一声掛けていただければ
現場の下見、お見積もり電気代のシミュレーションまで無料で致しますので是非お気軽にご相談ください。

                                                                       平成26年3月 増田 直樹



第23回(2014年6月)

第23回目の文仲だよりお届けします。
先回は直樹社長のお便りでした。お読みになった方から「会長はもう、文仲だよりやめたの?」と言われました、有難いことです。
今回のイベントでは店内の陳列を変えてみました、ぜひお越しください!

さて、今回は先代のオヤジのころから続いているバス旅行のことを話します。
40年くらい前です、まだおふくろも元気だった頃、おやじが「お世話になっているお客様をお誘いして一泊旅行でもしたら、
親しさが増していいんじゃないか」という事でバスを仕立てて、賛同してくれた仲間の電気屋さんと協力して
約10台位バスを連ねて、箱根、飯坂、加賀…と毎年秋に続けてきました。
費用はほぼ全額(25000〜30000円)お客様から頂いて行く訳で、よく続いたものと思います。

旅行を始めて4〜5年目辺りから私も参加するようになり、バスの中でガイドさんを花嫁に、
お客様の一人を婿に仕立て上げて、模擬披露宴なんかをやって賑やかにやってきました。
20年くらいも続いた頃から、電気屋さんの数も減ってきたり、お客様の高齢化もあったりで、
だんだんバスの数も減り、ここ数年は3台前後になってきました。
しかも、今ではお誘いする側の私が68歳にもなり、お客様の方は失礼ながらもう大変な御歳です。
今年が第40回目になるのですが、なんとか今年も実行するつもりです。
第40回記念になります今年は、あの有名な酒田の米蔵・山居倉庫を訪ね、秋田温泉に泊まり、角館です。(桜はありませんが…)
10月26日(日)〜27日(月)です。ご参加お待ちしております!

加えまして!!特に今年は例年の企画のほかに、私だけのスーパー企画として、【みすてりーツァー】をやろうと思っています。
10月の4日5日、会費は25000〜29000円と言うのが分かるだけであとは一切秘密の旅です。
バスも中型にして小人数でしか行けない、林道の奥の奥の怪しい宿に行くつもりです。
物好きな方、参加なさいませんか…!!!

                                                                       平成26年6月 増田 文雄

※この旅行の顛末をお聞きになりたい方は、ぜひ店にお越しください。



第24回(2014年10月)

残暑も殆ど無く、あっと言う間に冬に近づいてきました、皆様体調はいかがでしょうか。
今回は、小・中・高と一緒だった友人のお話です。
先日、九月七日の日曜に、糸魚川で開催された”クラシックカーレビュー”に行ってきました。
外国製や国産の、それはもう懐かしく、そして初めて見るようなクラシックカーがずらり数百台。もう、興奮でした。
夢のコスモスポーツ、そして若い時にレンタカーで戸隠のバードラインや裏磐梯を走り回った、ホンダのS600というオープンスポーツ、
修理道具やカタログを載せて商売に使った三菱コルト、トヨタセリカ…暑さも忘れて会場を巡っていました。
そして車の他にもマニアの為のカー用品やプラモデル、車に関する書籍…。

それらを売っているテントの列の中に、見覚えのある顔が写ったポスターが有るブースを見つけました。
近寄って見ると【 川上 完 メモリアルin 湯沢 】とあります。担当の方にお話を聞くと、
今年五月七日に他界した彼への追悼の思いをこめて、彼と関わった方たちの集まりを湯沢パークリゾートで十月四日・五日に開くとの事。

摂田屋方面の方はご存知と思いますが、「川半サマ」というお宅がありました。
上杉謙信の時代に「摂田屋館」というお屋敷があったそうで、その子孫らしいのですが、私の友人の父上は、川上 潛という方で、彼は タモツ といいました。
小さい頃から車やバイクに詳しく、中学生の頃、ドイツでヴァンケルエンジン(今のロータリーエンジン)が発明されたと聞くと、
いち早く私に教えてくれたのも彼でした。
二人でこっそりオヤジのバイク、ホンダベンリーを持ち出して乗っているうちに、彼が田んぼに落ちて大騒ぎしたのも、懐かしい思い出です。

そんな事をテントの担当者に話すと「ぜひ、当日湯沢に来て話して欲しい」と言われたのですが、あいにく都合が合いませんでした。
でも私は、彼がそんなに有名になって、しかも自動車関係の人たちに愛され親しまれているなんて、本当に嬉しくなりました。
たまに、同窓会で会うと「湯沢に住んでいるから遊びにきて」と言われていたのに、
そのうちに…と思っている内にいなくなってしまいました、残念でなりません。

終わりに私の自慢の彼のプロフィールをパンフレットから移しておきます。
今回もお読みいただき有難うございました。

                                                                       平成26年10月 増田 文雄
【川上 完(かわかみ たもつ)プロフィール】
稀代のクルマ&ヒコーキ好き。30歳代後半まで週刊平凡、平凡パンチ、ポパイ、ブルータスなどにフリーのカメラマンとして活躍。
その後、自動車ライターに転向、多くの自動車雑誌に寄稿した。また、約45年間のモデルカーと書籍や資料の収集により、
ミニチュアの数は5千台超、書籍類は二万冊以上に及ぶ。
長らく日本カーオブザイヤーの選考委員を努めた。主な著書に[名車達の伝記](マガジンハウス)、[日本の名車100台](立風書房)、他。



第25回(2014年12月)

今年最後の売り出しのご案内になります。一年間大変お世話になりました。25回目の文仲だよりお届けします。

6月の売り出しの時です。小雨が降る土曜の朝、店の外を掃除していましたら、新幹線の下で
大きなリュックを傍らに、雨宿りしながらおにぎりを食べている青年がいました。
(一人旅の途中かな?)なんて思いながら店に入り、開店の準備を終えて再び外に出ると、まだ休んでいます。
物好きな私は「中でコーヒーでも飲んでいかないか?」と声を掛けますと、彼はニッコリして「いいんですか!」と…

店内では色んなことを話してくれました。なんと歩いて日本一周をしているとのこと!それも30kgもの荷物を背負って。
昨年3月に東京を出発し、太平洋岸を北上して北海道、ここでお金が無くなって住み込みで牧場の牛の乳搾り、
4ヶ月ほどで再び歩きだして本土に渡り、日本海沿いに青森、秋田、山形、新潟と歩いてきたそうです。
私の店に来た前夜は、学校町の図書館の通用口の前で野宿…そうそう、旅の殆どは宿に泊まらないとのこと。
「山の中なんかで、クマとか怖くないの?」と聞きましたら、最初はそうだったけど、今は夜中におまわりさんに起こされるのが切ない、と言っていました。
最近は、公園でも駅でも野宿できる所はなかなか無いんだそうで、すぐに怪しまれて色んな目に会うとのこと。
時には心無い人たちに脅されたり、子供にいたずらされたり、野犬に追われたり、”コジキ”もかくや…と感じることが度々だそうです。

でも彼はめげずにテクテク歩き続けています。
当店を出発して、小千谷の「ちぢみの里」で風呂に入るのかと思えば、
お金が足りないので裏山の噴水で水浴びして、洗濯物をロープに干している写真がメールで届きました。
その後、小出から湯之谷、大湯温泉奥のあずまやで野宿して枝折峠を越えて銀山平、そして只見湖の縁を歩いて檜枝岐から尾瀬の燧ヶ岳に登山!
まるで人間ではありません。そのあと日光へ…彼の旅をインターネットで追っているとキリがありません。

そしてネットの繋がる所では土曜夜10時の私の番組JAZZYな夜を聞いてくれて、リクエストもくれます。
その後、彼は日本アルプスを縦断して…今はなんと九州にいます!!!
最終ゴールは沖縄とのこと、皆さんも応援してあげて下さい。インターネットで”歩いて日本一周” で検索すると見ることができます。

今回もお読み頂き有難うございました、皆様良いお年を。

                                                                       平成26年12月 増田 文雄



第26回(2015年3月)


寒い日々が続きます、皆様お元気でいらっしゃいますか。
今年初の文仲だよりをお届けします。今年もよろしくお願いいたします。

今回は、母校のN高校の保健室におられたK先生のお話です。
先日「電気毛布が欲しい」との電話があり、私が代わりますと「増田クン?Kだよ、解る?」とのお声。
私はすぐに思い出して「あぁ!先生お久しぶりです、何十年振りですね・・・」と話が弾み、早速納品に伺いました。

あれは1964年6月16日、私は仲間と身体検査の為、講堂にいました。そこへいきなりゴォーッ、グラグラッとすごい揺れです。
いわゆる新潟地震でした。
そこに居られたK先生は、大きな声で「逃げなさーい!」と叫んだのです。
私たちは窓から中庭に飛び出ました。池の水がザブンザブンと波打っていたのをはっきり覚えています。
今でもあの「逃げなさーい!」のありったけの声は耳に残っています。

K先生との思い出はもう一つ、県内の高校登山大会で魚沼の駒ケ岳に登った時、先生は万一の時の救護班として参加されたのですが、
下山の折にご一緒することになり、色んな話をしながら山道を歩いたのを思い出します。
私が進学を諦めることをボヤいたのを慰めて頂いたのも懐かしい思い出です。

玄関でチャイムを鳴らすと、「ハーイ」と懐かしいお声・・・
クリっとした瞳、少しおちょぼなお口、お顔の○ワは増えても、昔のままのK先生のお顔がそこにありました。
小さい頃からの幼馴染とおっしゃるご主人の優しそうな笑顔もご一緒でした。
お互いの近況をいっぱい語り合い、私の孫の写真をお見せしたり、女房が他界した事をお話すると
我が事のようにポロポロと・・・90歳になられた今も昔と変わらない多感なK先生でした。
とても心が暖かくなる時間を頂いてきました。
久しぶりにしみじみと「人生はいいもんだな・・・」なんて感じた日でした。

今回も好き勝手に書いてしまってすみません。3月6・7・8日はお待ちしております。

                                                                       平成27年3月 増田 文雄

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